【アジア諸地域の繁栄】ムガル帝国の政策について
ムガル帝国の政策について
ムガル帝国のアクバルはイスラーム教とヒンドゥー教の融和をはかったとありました。具体的にはどんなことをしたんですか?
進研ゼミからの回答!
【質問の確認】
ムガル帝国のアクバルはイスラーム教とヒンドゥー教の融和をはかったとありました。具体的にはどんなことをしたんですか?
【解説】
ムガル帝国(1526〜1858年)の第3代皇帝であるアクバル帝(位1556〜1605年)は、帝国創始者であるバーブル死後の混乱のなかからムガル帝国を再興し、帝国を実質的につくりあげていった人物です。アクバルというのは、アラビア語で“偉大な”という意味だそうです。ムガル帝国が発展できたのは、彼が帝国内にいたイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和をはかり、内政を安定させようと努めたからです。それでは、アクバル帝の代表的な宗教政策である「ジズヤ(人頭税)の廃止」などについて説明していきましょう。
ジズヤとは、イスラーム政権が非イスラーム教徒へ課した人頭税のことです。そもそも人頭税とは国民ひとりひとりに頭割りで均等に割り当てる税なのですが、インドを支配するようになったイスラーム帝国であるムガル帝国では、イスラーム教徒にはジズヤを課していませんでした。ジズヤを割り当てられたのは、イスラーム教以外の宗教を信仰する、主にヒンドゥー教徒(ヒンドゥー教は“インド人の宗教”を意味する民族宗教)でした。
そうすると同じ帝国内に、ジズヤを課されないイスラーム教徒とジズヤを課されるヒンドゥー教徒などが混在することになり、不公平感が生じますよね。そこで、アクバル帝は自身がイスラーム教徒でありながら、両教徒間に存在した宗教的・民族的な対立を解消するべく、ヒンドゥー教徒との融和策をとったのです。
具体的には、ジズヤ(人頭税)を廃止したほか、自らヒンドゥー教徒の王女と結婚し、優秀な人材ならヒンドゥー教徒でも高級官僚や将軍に任命するなど、公平で平和的な統治をめざしました。このようにして、即位当初はきわめて不安定だった政権が落ち着き、中央集権体制を強化していくことができたのです。特に16世紀後半に実施された「ジズヤ(人頭税)の廃止」は、アクバル帝がとった寛容な宗教政策として理解しておきましょう。
宗教政策のほかに行われた中央集権化についても補足しますと、アクバル帝は、すべての官僚を等級づけすることで支配階層を組織化しました。また、軍制を整えて領土を拡大することで北インドの統一をなしとげ、首都をデリーからアグラへ遷都しました。全国の土地を測量して徴税する税制も確立し、中央集権的な統治機構も整備しました。
【アドバイス】
アクバル帝がジズヤ(人頭税)を廃止してイスラーム教徒とヒンドゥー教徒との融和をはかったのに対して、のちの第6代皇帝アウラングゼーブ帝(位1658〜1707年)は、17世紀後半にジズヤを復活してヒンドゥー教徒の反発を招きました。アウラングゼーブ帝はムガル帝国の領土を最大に広げたものの、宗教的な不寛容さが原因となって、帝国が分裂・崩壊へと向かうことになります。
お尋ねのアクバル帝のヒンドゥー教徒などに対する融和策と対比して、アウラングゼーブ帝のヒンドゥー教徒などに対する弾圧策が問われることも多いです。「ジズヤ(人頭税)」というキーワードを押さえて、どちらの皇帝が「廃止」したり「復活」したりしたのか混同しないよう、はっきりと区別できることが大切です。
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