【古代のアジア】郡県制と郡国制の違い
郡県制と郡国制の違い
郡県制と郡国制の違いがややこしくてよくわかりません。それぞれどのような支配方法か教えてください。
進研ゼミからの回答!
【質問の確認】
郡県制と郡国制の違いがややこしくてよくわかりません。それぞれどのような支配方法か教えてください。
【解説】
ポイントとなる部分を整理すると、次のようになります。
●「郡県制」… 全国を郡・県にわけ、それぞれに皇帝が任命する役人を派遣して、そこを治めさせる制度。
■「郡国制」… 直轄地は「郡県制」、地方は「封建制」で治める制度。
※「封建制」… 一族・功臣に領地を与えて諸侯とし、そこの統治をまかせる制度。
秦と前漢の地方制度ですね。「郡県制」というのは、全国を郡・県に分けて、皇帝が任命する官吏(かんり:言い換えれば役人)を派遣する制度です。
それらの官吏が皇帝の命令どおりに動き、人々が官吏の指示に従うことによって、結果的に人々はみな皇帝の命令に従って生活することになります。
「封建制」が採用されていた周の各地では、諸侯が、ある程度は自由に自分の領地を治めていました。諸侯というのは、周王から封土(領地)を与えられ、貢納や軍役の義務を負うかわりに、その土地の支配をまかされた周王の一族・功臣や各地の土着の首長です。
血縁関係に基づく制度であり、諸侯の地位は、代々その子孫らが受け継いでいきました。しかし、時代とともに血縁関係が薄れ、周の勢力も衰えると、各地の諸侯はやがて王を名乗るようになり封建制は崩れていきました。
各地の王を抑え、中国を統一した秦が郡県制を全国に実施すると、そのあまりに急激な中央集権化に対し、秦に滅ぼされた国々は、秦に対して不満を抱くようになりました。やがて始皇帝が死去し、大規模な農民反乱であった陳勝・呉広の乱が起こって秦が動揺すると、各地で反乱が起きるようになり、秦は滅亡しました。
こうした経験をふまえて、前漢の初期には「郡国制」が採用されました。
都周辺の直轄地にのみ郡県制をしき、地方には一族・功臣を諸侯として封じる封建制をしいたのです。
しかし前漢の皇帝たちは、地方の支配者(諸侯)の勢力を削ることにつとめ、第6代皇帝の景帝の時には、諸侯の領地を削減しました。これに反発した呉や楚などの諸侯たちがおこした反乱を呉楚七国の乱(前154年)といいます。
皇帝は呉楚七国の乱を、短期間で鎮圧することに成功しました。この結果、諸侯の権力は弱められ、皇帝はほぼ中国全土に、自分が任命した官吏(役人)を送り、皇帝の命令どおりの統治をおこなわせることが可能になりました。こうして、実質的には、郡県制による中央集権体制に移行していったのです。
ちなみに、こうして事実上確立された郡県制は、基本的な形としては、清朝の時代まで維持されることになります。
【アドバイス】
封建制・郡県制・郡国制などに関連した事がらは、抽象的でわかりにくいかもしれません。それぞれの制度の違いに注目して、整理しておきましょう。
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